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2007.02.04 (Sun)

わたしの言葉は決して滅びない


天地は滅びるが、
わたしの言葉は決して滅びない。

Heaven and earth will pass away, but my words will not pass away. (マタイ24-35、マルコ13-31、ルカ21-33)



悲しいけれど、天地万物はいずれ滅びます。
人間を取り巻く自然も、人間が作ったものも、時がくれば滅びます。

どれだけ広大なものでも物質できているものは、すべて滅びます。
あなたが愛する人々の体も、あなた自身の体も・・・・・・。

この世界で滅びないものは、ひとり神さまだけです。

その神が言われるわけです。
「わたしの言葉は決して滅びない」と。

「聖書が永遠のベストセラー」だと言われるのは、永遠に滅びることのない神の言葉を伝える書物だからでもあるのでしょう。

人間には、その言葉を受け入れる自由と受け入れない自由があります。

多くの人は、「なるほど、あれはいい言葉だ。覚えておこう。しかし、この言葉はどうも理解できないし、気に入らない」と思うものです。

正直に言えば、わたしもその一人です。

ただ、そういうわたしが滅びても、神の言葉は滅びることはありません。

この世は神の語った真理を受け入れることも、反逆することもできますが、どれだけ反逆しても滅びるのはこの世で、真理の方ではありません。

時間を超えて存在される神にとって、何千年の歴史は常にご自分の眼前に展開されています。

神には、この世の過去も現在も未来も見えているのです。
当然ながら、この世の滅びの有様も・・・・・・。

ですから、神さまは言われるのです。
滅びるものではなく、決して滅びないものを手に入れるようにと。

さて、あなたは、どうされますか。

聖書を読まれるなら、フェデリコ・バルバロ訳・講談社刊『聖書―旧約・新約』がおすすめ。

聖書―旧約・新約聖書―旧約・新約
(1980/11)
フェデリコ・バルバロ

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2007.02.03 (Sat)

死ねば、多くの実を結ぶ



一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

Unless a grain of wheat falls into the earth and dies, it remains just s single grain; but if it dies, it bears much fruit.

(ヨハネ12-24)



これは、イエス・キリストの十字架でのご死去を直前にして語られた言葉です。

イエスは、自分の死の意義を地に落ちる麦にたとえて語っておられるのです。

この「一粒の麦」とは、イエス自身のことです。

「多くの実が結ぶ」とは、人類が救われるということです。
イエスは人間の罪を背負い、償うために十字架でご死去なさいました。

それによって、人類の救済が成し遂げられたのです。
わたしはこの言葉を読むと、三浦綾子さんの感動的な小説『塩狩峠』を思い出します。

主人公の青年は、長い間病身であった恋人との待ちに待った結納の日、その恋人のもとへ行くために、ひとり列車に乗ります。

ところが、こともあろうに青年を乗せた列車が、峠の下り坂でブレーキがきかなくなり暴走し始めたのです。

青年は鉄道員でしたので、手段を講じて列車を止めようとしますが、どうしてもできません。

列車は、ますます速度を上げます。

このままでは、カーブに差し掛かったところで、列車は横転し、多くの乗客が生死にさらされる。

そう考えた青年は列車の前に身を投げ、自分の体を車輪の下に置くことで、列車の暴走を食い止めました。

そして、乗客全員を救ったのです。

これは、実際にあった出来事と人物をもとにしている小説です。

自分の命をも人のために捧げるとき、多くの実りが生まれることを信じたいと思います。


塩狩峠 塩狩峠
三浦 綾子 (1973/05)
新潮社

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2007.02.02 (Fri)

蛇のように賢く、鳩のように素直に



わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。

See, I am sending you out like sheep into the midst of wolves; so be wise as serpents and innocent as doves. (マタイ10-16)



新人営業マンを初めて送り出すときに、上司はいろいろとアドバイスをするでしょう。
やはり多少心配ですから。

イエスも弟子たちを宣教に送る前にアドバイスをしました。
狼の群れに羊を送り込むような心境でしたから。

イエスは弟子たちの運命を知っていたのです。

彼らが会堂で鞭打たれ、王の前に引き出されて、詰問されること。
イエスという名のために、すべての人に憎まれること。

そういう厳しいことになるよと覚悟を決めさせた上で、送り出しました。

その迫害に最後まで耐え忍ぶものは救われることも、付け加えていますが・・・・・・。

「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」とは、そのときのイエスの弟子たちへのアドバイスの言葉です。

ところで、この言葉は、わたしたちの日常生活にも有益ではないでしょうか。

わたしたちも、この日常生活でも世間から不当な扱いを受けたり、言われもなく妬まれたり、嫌がらせを受けたりすることがあるでしょう。

わたしたちもこの社会で生きぬいていくためには、強くあらねばなりません。

そのためには、身体が健康で丈夫であることも大切ですが、賢くこの世を生きていくための知性も必要です。

そして、人や神を愛し愛されるためにも、様々なことを学ぶためにも、素直な心を磨いていきたいものです。

賢い頭と素直な心、ずっともっていたいですね。

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2007.02.01 (Thu)

わたしにしてくれたこと



わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、
わたしにしてくれたことなのである。

Just as you did it to one of the least of these who are members of my family, you did it to me. (マタイ25-40)


この世には、小さくされた人々がいます。

病気の人、貧しい人、社会の片隅で見捨てられだれからも顧みらない人。

そういう人たちにしてあげたことは、わたしにしてくれたことだとイエスは言います。

わたしたちのまわりに、このような「最も小さい者」はいないでしょうか。

よく目をこらしてみてください。

その人は、わたしたちの家庭の中にいるかもしれません。
同じ教室、同じ職場の中にいるかもしれません。

だれからも愛されていないように感じている人。
見捨てられていると感じている人。

その人は、あなたの家族の一人かもしれません。
同僚、クラスメートの一人かもしれません。
親戚、友人の一人かもしれません。

インドに来てボランティアをするよりも大切なことは、自分の身近な人々に親切にすることだと、マザー・テレサは次のように言いました。

「年老いた両親のために一輪の花を持っていったり、ふとんを整えてあげたり、仕事から戻ってきた夫をほほえんで迎えてあげるだけでいいのです。
 
学校から帰ってきた子を迎えてやり、声をかけてあげてください。
今、こういったふれあいが失われています。
 
忙しすぎてほほえむ暇も、愛を与えたり、受けとめたりする暇もない、そういう生活になっていませんか」


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2007.01.31 (Wed)

あなたがたは世の光である




あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。

You are the light of the world. A city built on a hill cannot be hid. No one after lighting a lamp puts it in the bushel basket, but on the lampstand, and it gives light to all in the house. In the same way, let your light shine before others.(マタイ5-14~16)



マザー・テレサは、自分が世間の人々から賞賛されたり、チヤホヤされたりすること嫌がりました。

「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(マタイ6-3~4)

この福音の精神に忠実だった彼女は、できれば隠れて過ごすことが望みでした。

しかし、彼女がノーベル平和賞を受けると世界中のマスコミは一斉に彼女を聖女として祭り上げ、世界中の人々に知られることになりました。

それは彼女が本来望んでいなかったことです。
授賞式後、報道陣に囲まれた彼女は、いつものようにやさしいほほえみを浮かべながら心境を述べました。

「わたし個人はノーベル平和賞に値するとは思いません。でも、誰からも見捨てられ、愛に飢え、死に瀕している世界のもっとも貧しい人々にかわって賞を受けました」

そんな彼女に「あなたがたは世の光である」というイエスの言葉は、力を与えたはずです。

その言葉どおり、彼女は、この世の片隅を照らすために世の光となりました。

その光によって、この世から見捨てられたような人々にも多くのまなざしと温かさが向くようになりました。

ただ、彼女は知っていたのです。光の源は、決して自分ではないということ。

自分自身が輝いているのではなく、輝かせていただいていること。
自分は、ただ自分に与えられた光を分け与えているのに過ぎないということ。
 
そういうことを承知しながら、世のなかを照らしている人は、謙虚で温かいのです。


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2007.01.30 (Tue)

あなたがたは地の塩である




あなたがたは地の塩である。
だが、塩に塩気がなければ、その塩は何によって塩味が付けられよう。

You are the salt of the earth; but if salt has lost its taste, how can its saltiness be restored. (マタイ5-13)


ある外国人がはじめてニギリ寿司を食べたときの話。
 
日本人が喜んで食べる食物なので、どんな味がするのかと期待していたのですが、口に入れてがっかりしたそうです。

なんて味気ない食べ物だ、と感じたのです。
 
しかし幸い、近くにいた人がニギリ寿司には醤油をつけて食べるものだと教えてくれました。
 
そのとおりに食べてみると、さっきとは打って変わって、なんとおいしいこと。
 
それ以来、彼はニギリ寿司はもちろん醤油の大ファンになりました。
ところで塩も、醤油のように料理の味付けには欠かせないものです。
 
塩は使われることによって、その役目を果たします。
塩の役目は、防腐や浄化もありますが、まずは料理に味つけること。

わずかな塩が、その料理全体がおいしく味つけます。
その点は、醤油と同じなのですが、塩は醤油のように目立つことがなく、料理のなかに入れればとけて見えなくなります。

それでも、塩は自分の役目をきちんと果たしているのです。
 
神さまは、この社会のなかで、わたしたちが塩のような人になるように望まれています。
 
自分の家庭や職場のなかで、目立たずとも、自分の与えられた役割をきちんと果たしていくこと。
 
そのおかで、あなたの属する家庭や社会が活き活きとしたものになるのです。

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2007.01.29 (Mon)

仕える者のようになりなさい 



あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。

The greatest among you must become like the youngest, and the leader like one who serves. (ルカ22-26)


「最後の晩餐」のときに、またしても弟子たちのなかで自分たちのだれがいちばん偉いだろう」か、という議論が起こりました。

イエスは、この議論にうんざりもし、悲しくも思われたことでしょう。

これまで3年間共に生活し、様々なことを教えてきたにもかかわらず、弟子たちは、依然として、この世での名声や栄誉、地位や一目置かれることなどを求めて言い争っていたからです。

数時間後には自分は捕らえられ、受難が始まることをイエスは予知されていました。

この最後のチャンスに、どうしても教えておかねばなりませんでした。

「あながたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」

神の目から見れば、いちばん偉い人とは、謙遜な人であり、仕えることのできる人なのです。

イエスは、このことを言葉だけでなく、模範によっても教えられました。

ヨハネ福音書では、この最後の晩餐のときに、イエスが弟子たちの足を洗う場面が描かれています。

足を洗うのは、当時、奴隷だけがする仕事でしたが、それを弟子たち一人ひとりにしてあげました。

こうして模範を示された上で次のように教えられました。

「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ13-14)

わたしたちが謙遜になり、互いに仕え合うことをイエスは望んでおられました。
偉くても仕える者こそが、神の目にはいちばん偉い人なのです。
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2007.01.28 (Sun)

子供のように



心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。

Unless you change and become like children, you will never enter the kingdom of heaven. Whoever becomes humble like this child is the greatest in the kingdom of heaven. (マタイ18-3~4)

「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」(マタイ18-1)という弟子たちの問いに対するイエスの答えです。

イエスに選ばれた弟子たちは、漁師や税吏などを仕事にしていたごく普通の人々でした。

ときには、だれがいちばん偉いのかということで、言い争うことがありました。

それぞれに言い分があり、また自分のプライドもあったのでしょう。
議論の末に、では先生に尋ねてみようということになったのです。

彼らには、モーセ、アブラハム、ダビデなど、旧約時代の義人たちのうち、だれの名前が告げられるのか、という尽きぬ興味があったと思われます。

あるいは、いまイエスに従っている自分たちから選ばれるかもしれない、という淡い期待もあったことでしょう。

しかし、イエスの答えは彼らのまったく予期せぬものでした。

イエスはひとりの子供を呼び寄せ、弟子たちの中に立たせて、「子供のようにならなければ、決して天の国には入ることができない」と言われたのです。   

幼く純真な子供を目にしながら、それまで熱く言い争っていた弟子たちの高慢心は、このときいっぺんに萎んだことでしょう。

この世でどれほど力があり、知識があり、富をもっているかは大切ですが、天国に入るためにはあまり役に立たないようです。

どれほど力があり、知識があり、富をもっていても、子供のようなになれる人。
自分を低くして、謙遜で素直になれる人。

天国の門はそのような人に開かれているのです。


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2007.01.27 (Sat)

七の七十倍までも赦しなさい


主よ、兄弟がわたしに罪を犯したなら、
何回赦すべきでしょうか。
七回までですか。・・・・・・
七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

Lord, if another member of the church sins against me, how often should I forgive? As many as seven times? ・・・・・・
Not seven times, but, I tell you, seventy-seven times.
(マタイ18 21~22)

たとえば、だれかが、自分との約束をほっぽりだして忘れてしまう。
赦せますか。

赦せますよね。一度や二度、同じことが続いても「まあ、あの人もうっかりしたのでしょうから」と。

「仏の顔も三度まで」という言葉がありますが、三度赦せるなら、あなたは仏様のように優しい人かもしれません。

でも、それ以上になると、どうでしょう。

「これで、連続六回目・・・・・・。アンマリじゃない。あの人、わたしをバカにしてるのかしら・・・・・・」と多少腹を立てるのがふつうの反応だと思います。

それが人間の感情というもの。怒っても仕方ないのです。罪に対しては・・・・・・。

しかし、イエスはその人を赦しなさいと言われるのです。

「罪を憎んでも人を憎まず」、しかも七の七十倍、つまり何度でも、限りなく、赦しなさいと。

こんなとんでもないことを言えるのは、神以外にいないでしょう。

たいへん厳しい。でも、これが神さまの優しさというものではないでしょうか。

神さまがそう言われるのは、神さま自身があなたを七の七十倍までも赦していらっしゃるからなのですよ。

そんなふうに言うと、「えー、とんでもない。七の七十倍どころか、わたしは一度も神さまに赦してもらったことなんかないですよ」とおっしゃる方も当然のことながらいるでしょう。

そう、そうなのです。

気づかないくらいさり気なく、赦されているのです、わたしたちは。


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2007.01.26 (Fri)

あなたがたも人にしなさい。

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
これこそ律法と預言者である。

In everything do to others as you would have them do to you; for this is the law and the prophets. (マタイ7-12)


これは、イエスが語られる「隣人愛」を表した言葉です。

儒教の教えにも似たような言葉があり、日本でもよく知られていますね。
「己の欲せざる所、人に施すなかれ」

つまり、「自分がしてほしくないことは、他人にもするな」ということですが、これも隣人愛のひとつです。

日本ではよく、「人に迷惑をかけないように」と言われます。
これはとても大切なことだと思います。

たとえば、バスや電車などの公共の場で自分勝手な行動をしていては当然のことながら、他の人に迷惑をかけます。

これは親も教師も子どもにしっかり教えるべきマナーなので、
「バスや電車で騒がないように、人に迷惑がかかるから」
と、わたしもこれまで繰り返し、学校で子どもたちに言ってきました。

けれども、「~しない」という控えめな態度も大切ですが、それだけはなんとなく物足りないような寂しいような気がします。

もう一歩踏み込んで、「自分がしてほしいことを他人にもしてあげる」という積極的なふれあいにこそ温かな人間らしさを感じます。

たとえば、バスや電車に乗ったときは、
「お年寄りの方がいらっしゃったら、席をゆずってさしあげなさい」
と、子どもに言うだけでなく、自ら進んでそうしてみる。

そういう行いも、この言葉にこめられた隣人愛ではないでしょうか。


教養として知っておきたい聖書の名句 教養として知っておきたい聖書の名句
中井 俊已 (2004/09)
グラフ社

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