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2007.02.26 (Mon)

なすべきことをなしたるのみ

永井隆の墓は、長崎市坂本町の国際墓地入り口のすぐ脇に用意してありました。

墓石は水平で、「パウロ永井隆」「マリア永井緑」と刻まれていました。

墓石が水平なのは、隆は生きているとき、こんなことを言っていたからです。

「わたしの墓に来てくださる方がいるかもしれない、そのとき、石碑を見上げていただいては気の毒だ。わたしは見上げられるようなこともしていないし、見上げてもらうほどの人物でもない。わたしの墓は石碑を立てない。その人よりも下の方にいるために、地面に自分の名を置くよ。」(永井誠一著『長崎の鐘はほほえむ』)

隆が頼んで作ってもらった二枚の石板のうちの一枚には、
「われは主のつかいめなり、おうせのごとくわれになれかし」
と刻まれていました。

これは、「わたしは神様に仕えるものです。おっしゃった通りになりますように。」という意味です。聖書にある聖母マリアの言葉で、隆が毎日、何十回、何百回と念じていた祈りの言葉の一部です。

また、もう一枚には、
「われらは無益なしもべなり、なすべきことをなしたるのみ」
と刻まれていました。

これは、「わたしたちは役にたたない召使です。ただすべきことをしたに過ぎません」
という意味で、これも聖書の言葉です。

隆は、自分や妻の緑さんの一生を振り返り、自分たちは大した役にも立たなかったのだと謙虚に考えていたのです。

亡びぬものを / 永井 隆

長崎の鐘 / 永井 隆
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2007.02.25 (Sun)

本を読む子になりなさい。

永井博士は、昭和二十五年(一九五〇)、自分の家のへやをつかって、
「うちらの本箱」という図書室をつくりました。
「うちら」とは長崎弁で、「わたしたち」という意味です。

「本を読む子になりなさい。」
といつも誠一や茅乃に言っていた隆は、同じ願いを浦上の子どもたちにも持っており、だれでも自由に本が読めたり、勉強できたりする場所が必要だと考えていたのです。
 
この図書室には、隆らしいユニークなおきてを作りました。


  うちらの本ばこ おきて

 ブタのようにおしりのよごれた子
 ネコのようにあしのよごれた子
 サルのようにてのよごれた子
 イヌのようにわめく子
 ウマのようにあばれる子
 ウシのようによだれをたらす子
 ヤギのように本をちぎる子
  はいること おことわり
   一九五〇年 こどもの日
         浦上 永井 隆

このおきては「うちらの本箱」の入り口にかかげられていました。

この子を残して / 永井 隆

長崎の鐘 / 永井 隆
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2007.02.24 (Sat)

私の腕の中で、

「私の腕の中で、妻がかさかさと燐酸石灰の音を立てていた。
 わたしはそれを『ごめんね、ごめんね』といってるのだと聞いた。」
                       『ロザリオの鎖』



原爆が落ちて三日目の夕方、必死の救護の活動も一段落したので、隆はやっと許しをもらって、はじめてわが家に帰りました。

三日前の見なれた家並みや木々は消え、どこも同じように灰となっていました。あちらこちらで骨を焼く火が赤く燃えていました。そばでしょんぼりとしゃがむ人影があります。

 
わが家のあったところまで来ました。やはりすべてはなくなり、焼け跡になっていました。
 
台所があったあと、茶わんのかけらのかたわらに、灰色にまみれた黒い塊を見つけました。

(緑の骨だ。)

近寄って手をかけると、まだ、ぬくもりがありました。

拾い上げると、あまりにも軽く、ぽろりとくずれました。骨にはロザリオの鎖がまつわりついていました。
 
焼けたバケツに骨を拾いました。その骨を胸に抱いて歩き出しました。

(わたしの骨を、近いうちに妻が抱いていく予定だったのに……。運命とは分からないものだ。)
 
バケツを抱く隆の腕のなかで、骨がかさかさと音をたてていました。

「ごめんね、ごめんね。……。」
 
隆には、妻がそうつぶやいているように聞こえるのでした。

永井隆全集〈第3巻〉 永井隆全集〈第3巻〉
永井 徳三郎、永井 隆 他 (2003/08)
サンパウロ

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2007.02.23 (Fri)

その母の最期の目は

「その母の最期の目は、私の思想をすっかりひっくり返してしまった。私を生み、育て、私を愛し続けた母が、別れに臨んで私を見つめた目は、『お母さんは死んでも、霊魂は隆ちゃんのそばにいつまでもついているよ』と確かに言った。」(『ロザリオの鎖』)


大学に入ると隆は、医学を一所懸命に勉強しました。

隆は高校生のときから、唯物論のとりこになっていました。唯物論とは、この世には物質しかなく、心や霊魂といわれるものは脳の働きにすぎないという考えです。

大学では、いきなり死体の解剖を習い、これが人間の本体だと教えられます。
そのため、隆はあたりまえのように人間は物質にすぎないと思いこみました。

そして、科学があればどんな問題でも解決できると考えました。

ところが、大学三年の春休み、そんな隆の考えをまったくひっくり返すできごとがおこります。

「ハハ、キトク。」

母親が病気で倒れたことを知らせる電報が、とつぜん届いたのです。

隆は、すぐに列車にとびのり、ふるさとの島根県飯石郡飯石村(現在は雲南市三刀屋町)に帰ります。

重病の母は、亡くなる寸前でした。
隆がまくらもとに駆けつけたときには、まだ息があり、じっと隆の顔を見つめた後、しばらくして亡くなりました。

このときの母の目が、自分を変えたと、後に隆は書いています。

このときから、隆の霊魂に対する考えがかわりました。

肉体はほろんでも、人間の霊魂はほろびることはない。
そのことを隆は母親の臨終からさとったのです。

ロザリオの鎖 / 永井 隆
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2007.02.22 (Thu)

平和は長崎から!

「『原子爆弾は長崎でおしまい!平和は長崎から!だれもがそうさけんでいる!およしなさい戦争だけは!やめてください!』
平和をたもつためには、ぜひ現代の世界の人びと原爆の被害を本当の様子を知らせなければならない。私はこう思ったからすぐに鉛筆を手ににぎり、あの長崎最後の日の様子をありのままに書いていった。思い出すたびになみだが出てくる」(『平和塔』

永井博士の平和への訴えは、国内はもちろん外国にも反響をよびました。

アルゼンチン大統領夫人は聖母像を贈り、イタリアのカトリック医師会も教皇ピオ十二世の祝福を受けた平和の聖母像を贈りました。

ともに、聖母マリアによって世界平和をねがう心の表れでした。

平和塔 / 永井 隆
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2007.02.21 (Wed)

平和を!

 「戦争はおろかなことだ!戦争に勝ちも負けもない。あるのは滅びだけである!人間は戦争するために生まれたのではなかった!戦争はこりごりだ!平和を!永久平和を!」
(『花咲く丘』)

隆の平和への願いは、尽きることがありませんでした。

そのため病床で筆を取り、「平和を」の三文字を一枚一枚、平和への願いをこめて書きつづけました。

その数は、千枚。

それを知人にくばり、平和のために努力してくれるようにたのみました。

この子を残して この子を残して
永井 隆 (2005/08)
秋津書舎
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2007.02.20 (Tue)

本当の平和をもたらすのは

「本当の平和をもたらすのは、ややこしい会議や思想ではなく、ごく単純な愛の力による」(『いとし子よ』)


永井博士は、全身で平和を希求していました。

でも、自分の妻や家を一瞬にして奪った敵国アメリカに、後にも先にも恨みがましいことを言ったことはありません。

「目には目を・・・」「歯に歯を・・・」では、平和は訪れない。

「互いに愛し合う」という行ないが人々の心をひとつにし、平和をつくっていくのだと永井博士は考えていたのです。

いとし子よ / 永井 隆
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2007.02.19 (Mon)

それをお互いにゆるすことが平和の基です

「人はそれぞれ、完全円満なものではないから、お互いに、誤りをしでかしたり、考えの違うことはありがちです。それをお互いにゆるすことが平和の基です。〈中略〉相手を憎む心が起こったら、もう自分も平和を願う権利を失ったものとなります。相手を愛し、相手のために犠牲をささげて祈りましょう。それが平和を保つ、いちばん手がたい方法と思います」(永井隆『如己堂随筆』)


永井隆は、戦争を起こさないということだけでなく、積極的に自分から人をゆるし、人を愛することが平和の基盤になると考えていました。

そして、その考えを病気の体でありながら、とことん実践したのです。

如己堂随筆 / 永井 隆
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2007.02.18 (Sun)

「如己愛人」( 己のごとく人を愛する )

平和と愛のために祈り、病身の命をけずるように執筆し続けた博士の二畳一間しかない仕事場あり病室は、如己堂と名づけられました。
 


「如己愛人」つまり「己のごとく人を愛する」ことを目指した博士の思いや言葉や行いは、活字となり歌となり映像となりました。
 
それがどれだけ多くの戦後日本人の心をいやし、励ましてきたことでしょう。

幼い子どもだったカヤノさんに父親の永井さんが病床から遺した言葉です。

 「カヤノが持つ大切なものを本当に必要としている人にあげなさい。
カヤノに必要なものは、カヤノが必要なときに、
  神様がちゃんと与えてくれるから」

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2007.02.17 (Sat)

働ける限り働く。腕と指はまだ動く。書くことはできる。

 
永井隆博士は、1908年、島根県に生まれ長崎医科大学に学びました。
 
森山緑さんと結婚し、ふたりの子どもともに幸福な家庭を築いていましたが、放射線医療研究のために致命的な白血病を宣告されます。
 
その二ヶ月後、原爆被爆。最愛の妻緑さんを一瞬のうちに失います。
 
その悲しみの中を、病症の身ながら倒れるまで人命救助と医学の発展に尽くしました。
 
しかし、余命いくばくもないと診断された白血病はさらに悪化し、まもなく病床に伏さねばなくなります。それでも、永井博士は不屈の精神で天命に全力でこたえたのです。
 
「働ける限り働く。腕と指はまだ動く。書くことはできる。書くことしかできない」
 
そう言って、『長崎の鐘』『ロザリオの鎖』『この子を残して』など、死を目前にしながら、短期間に驚異的な量と高い質の著作を次々と成し遂げました。
 
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