2007年01月 / 12月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫02月

2007.01.31 (Wed)

あなたがたは世の光である




あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。

You are the light of the world. A city built on a hill cannot be hid. No one after lighting a lamp puts it in the bushel basket, but on the lampstand, and it gives light to all in the house. In the same way, let your light shine before others.(マタイ5-14~16)



マザー・テレサは、自分が世間の人々から賞賛されたり、チヤホヤされたりすること嫌がりました。

「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(マタイ6-3~4)

この福音の精神に忠実だった彼女は、できれば隠れて過ごすことが望みでした。

しかし、彼女がノーベル平和賞を受けると世界中のマスコミは一斉に彼女を聖女として祭り上げ、世界中の人々に知られることになりました。

それは彼女が本来望んでいなかったことです。
授賞式後、報道陣に囲まれた彼女は、いつものようにやさしいほほえみを浮かべながら心境を述べました。

「わたし個人はノーベル平和賞に値するとは思いません。でも、誰からも見捨てられ、愛に飢え、死に瀕している世界のもっとも貧しい人々にかわって賞を受けました」

そんな彼女に「あなたがたは世の光である」というイエスの言葉は、力を与えたはずです。

その言葉どおり、彼女は、この世の片隅を照らすために世の光となりました。

その光によって、この世から見捨てられたような人々にも多くのまなざしと温かさが向くようになりました。

ただ、彼女は知っていたのです。光の源は、決して自分ではないということ。

自分自身が輝いているのではなく、輝かせていただいていること。
自分は、ただ自分に与えられた光を分け与えているのに過ぎないということ。
 
そういうことを承知しながら、世のなかを照らしている人は、謙虚で温かいのです。


EDIT  |  06:00  |  『聖書』の言葉  |  TB(0)  |  CM(1)  |  Top↑

2007.01.30 (Tue)

あなたがたは地の塩である




あなたがたは地の塩である。
だが、塩に塩気がなければ、その塩は何によって塩味が付けられよう。

You are the salt of the earth; but if salt has lost its taste, how can its saltiness be restored. (マタイ5-13)


ある外国人がはじめてニギリ寿司を食べたときの話。
 
日本人が喜んで食べる食物なので、どんな味がするのかと期待していたのですが、口に入れてがっかりしたそうです。

なんて味気ない食べ物だ、と感じたのです。
 
しかし幸い、近くにいた人がニギリ寿司には醤油をつけて食べるものだと教えてくれました。
 
そのとおりに食べてみると、さっきとは打って変わって、なんとおいしいこと。
 
それ以来、彼はニギリ寿司はもちろん醤油の大ファンになりました。
ところで塩も、醤油のように料理の味付けには欠かせないものです。
 
塩は使われることによって、その役目を果たします。
塩の役目は、防腐や浄化もありますが、まずは料理に味つけること。

わずかな塩が、その料理全体がおいしく味つけます。
その点は、醤油と同じなのですが、塩は醤油のように目立つことがなく、料理のなかに入れればとけて見えなくなります。

それでも、塩は自分の役目をきちんと果たしているのです。
 
神さまは、この社会のなかで、わたしたちが塩のような人になるように望まれています。
 
自分の家庭や職場のなかで、目立たずとも、自分の与えられた役割をきちんと果たしていくこと。
 
そのおかで、あなたの属する家庭や社会が活き活きとしたものになるのです。

EDIT  |  08:46  |  『聖書』の言葉  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2007.01.29 (Mon)

仕える者のようになりなさい 



あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。

The greatest among you must become like the youngest, and the leader like one who serves. (ルカ22-26)


「最後の晩餐」のときに、またしても弟子たちのなかで自分たちのだれがいちばん偉いだろう」か、という議論が起こりました。

イエスは、この議論にうんざりもし、悲しくも思われたことでしょう。

これまで3年間共に生活し、様々なことを教えてきたにもかかわらず、弟子たちは、依然として、この世での名声や栄誉、地位や一目置かれることなどを求めて言い争っていたからです。

数時間後には自分は捕らえられ、受難が始まることをイエスは予知されていました。

この最後のチャンスに、どうしても教えておかねばなりませんでした。

「あながたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」

神の目から見れば、いちばん偉い人とは、謙遜な人であり、仕えることのできる人なのです。

イエスは、このことを言葉だけでなく、模範によっても教えられました。

ヨハネ福音書では、この最後の晩餐のときに、イエスが弟子たちの足を洗う場面が描かれています。

足を洗うのは、当時、奴隷だけがする仕事でしたが、それを弟子たち一人ひとりにしてあげました。

こうして模範を示された上で次のように教えられました。

「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ13-14)

わたしたちが謙遜になり、互いに仕え合うことをイエスは望んでおられました。
偉くても仕える者こそが、神の目にはいちばん偉い人なのです。
EDIT  |  06:00  |  『聖書』の言葉  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2007.01.28 (Sun)

子供のように



心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。

Unless you change and become like children, you will never enter the kingdom of heaven. Whoever becomes humble like this child is the greatest in the kingdom of heaven. (マタイ18-3~4)

「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」(マタイ18-1)という弟子たちの問いに対するイエスの答えです。

イエスに選ばれた弟子たちは、漁師や税吏などを仕事にしていたごく普通の人々でした。

ときには、だれがいちばん偉いのかということで、言い争うことがありました。

それぞれに言い分があり、また自分のプライドもあったのでしょう。
議論の末に、では先生に尋ねてみようということになったのです。

彼らには、モーセ、アブラハム、ダビデなど、旧約時代の義人たちのうち、だれの名前が告げられるのか、という尽きぬ興味があったと思われます。

あるいは、いまイエスに従っている自分たちから選ばれるかもしれない、という淡い期待もあったことでしょう。

しかし、イエスの答えは彼らのまったく予期せぬものでした。

イエスはひとりの子供を呼び寄せ、弟子たちの中に立たせて、「子供のようにならなければ、決して天の国には入ることができない」と言われたのです。   

幼く純真な子供を目にしながら、それまで熱く言い争っていた弟子たちの高慢心は、このときいっぺんに萎んだことでしょう。

この世でどれほど力があり、知識があり、富をもっているかは大切ですが、天国に入るためにはあまり役に立たないようです。

どれほど力があり、知識があり、富をもっていても、子供のようなになれる人。
自分を低くして、謙遜で素直になれる人。

天国の門はそのような人に開かれているのです。


EDIT  |  09:06  |  『聖書』の言葉  |  TB(0)  |  CM(1)  |  Top↑

2007.01.27 (Sat)

七の七十倍までも赦しなさい


主よ、兄弟がわたしに罪を犯したなら、
何回赦すべきでしょうか。
七回までですか。・・・・・・
七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

Lord, if another member of the church sins against me, how often should I forgive? As many as seven times? ・・・・・・
Not seven times, but, I tell you, seventy-seven times.
(マタイ18 21~22)

たとえば、だれかが、自分との約束をほっぽりだして忘れてしまう。
赦せますか。

赦せますよね。一度や二度、同じことが続いても「まあ、あの人もうっかりしたのでしょうから」と。

「仏の顔も三度まで」という言葉がありますが、三度赦せるなら、あなたは仏様のように優しい人かもしれません。

でも、それ以上になると、どうでしょう。

「これで、連続六回目・・・・・・。アンマリじゃない。あの人、わたしをバカにしてるのかしら・・・・・・」と多少腹を立てるのがふつうの反応だと思います。

それが人間の感情というもの。怒っても仕方ないのです。罪に対しては・・・・・・。

しかし、イエスはその人を赦しなさいと言われるのです。

「罪を憎んでも人を憎まず」、しかも七の七十倍、つまり何度でも、限りなく、赦しなさいと。

こんなとんでもないことを言えるのは、神以外にいないでしょう。

たいへん厳しい。でも、これが神さまの優しさというものではないでしょうか。

神さまがそう言われるのは、神さま自身があなたを七の七十倍までも赦していらっしゃるからなのですよ。

そんなふうに言うと、「えー、とんでもない。七の七十倍どころか、わたしは一度も神さまに赦してもらったことなんかないですよ」とおっしゃる方も当然のことながらいるでしょう。

そう、そうなのです。

気づかないくらいさり気なく、赦されているのです、わたしたちは。


EDIT  |  06:00  |  『聖書』の言葉  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2007.01.26 (Fri)

あなたがたも人にしなさい。

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
これこそ律法と預言者である。

In everything do to others as you would have them do to you; for this is the law and the prophets. (マタイ7-12)


これは、イエスが語られる「隣人愛」を表した言葉です。

儒教の教えにも似たような言葉があり、日本でもよく知られていますね。
「己の欲せざる所、人に施すなかれ」

つまり、「自分がしてほしくないことは、他人にもするな」ということですが、これも隣人愛のひとつです。

日本ではよく、「人に迷惑をかけないように」と言われます。
これはとても大切なことだと思います。

たとえば、バスや電車などの公共の場で自分勝手な行動をしていては当然のことながら、他の人に迷惑をかけます。

これは親も教師も子どもにしっかり教えるべきマナーなので、
「バスや電車で騒がないように、人に迷惑がかかるから」
と、わたしもこれまで繰り返し、学校で子どもたちに言ってきました。

けれども、「~しない」という控えめな態度も大切ですが、それだけはなんとなく物足りないような寂しいような気がします。

もう一歩踏み込んで、「自分がしてほしいことを他人にもしてあげる」という積極的なふれあいにこそ温かな人間らしさを感じます。

たとえば、バスや電車に乗ったときは、
「お年寄りの方がいらっしゃったら、席をゆずってさしあげなさい」
と、子どもに言うだけでなく、自ら進んでそうしてみる。

そういう行いも、この言葉にこめられた隣人愛ではないでしょうか。


教養として知っておきたい聖書の名句 教養として知っておきたい聖書の名句
中井 俊已 (2004/09)
グラフ社

この本の詳細を見る
EDIT  |  15:46  |  『聖書』の言葉  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2007.01.21 (Sun)

愛は家庭から始まります


「愛はどこから始まるのでしょうか。
それは、家庭です。
 
愛は、家族がいっしょに祈ることで始まります。
父母、兄弟姉妹と共に祈る時に、私たちの家族は一致しています。
 
家族が一致しているとは、互いに愛し合っていることを意味しています。
 
まず家族から、愛することが大切です。
愛は家庭から始まります。
 
ですから両親に、又先生方に祈ることをならってください。
祈れば清い心を持つことができます。
 
清い心があれば、神があなたを愛しておられるように、あなたも真心から深い喜びをもって神を愛することができます。

なぜなら、心が自由で開かれているからです。
このように祈ることを習うのは大切です。
祈りの結果、信仰が深まり、神が私を愛しておられるようと信じるようになります。
 
信仰の実りは愛です。
私も愛さなければならないと感じるようになります。
 
このように、祈り、信仰、愛、奉仕は家庭の中に立派につながっています。
 
祈りを信じるようになり、信じれば愛するようになり、愛すれば何かよい行動を起こすようになるのです」    
 
このような話を、マザー・テレサは、日本だけでなく世界中でしました。
 
彼女は、現代の家族が危機的状況にあるのを知っていました。

先進国では、「離婚の増加」「少子化」「引きこもり」「家庭内暴力」などの問題が深刻化し、一つ屋根の下に住みながら、家族の心はバラバラになってしまいました。
 
本来、家庭はあたたかく人を包み込むものです。
外に行って疲れて帰ってきて、ふとやすらぎを感じ、「やはり、わが家が一番いいな」と思うものです。

そこには、自分が愛し自分を愛してくれる人がいるからです。
 
マザー・テレサはそのような家庭で少女時代を過ごしました。
 
修道女になってからは、修道会が彼女のあたたかな家庭でした。
 
家庭での愛は、互いに互いの幸福を願うことから始まります。
幸福を願うことは、愛を帯びた祈りとなります。
 
互いに祈り合う家庭は、愛に満たされるのです。

EDIT  |  06:00  |  マザー・テレサ  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2007.01.20 (Sat)

愛だけがその苦しみを取り除くことができる

自分は理解されていない、愛されていない、大切に思われていないと感じ、生きている意味も見出せず、ただ毎日を仕方なく生きている人が大勢います。
  
マザー・テレサは言いました。
 
「いまや、望まれないこと、愛されないことの方が、ハンセン病や結核やガンなどよりもずっとひどい病です。

病気の人々に対しては、薬がありますが、孤独な人々や望まれない人々に対しては、あなたの愛や私の愛だけが、その苦しみを取り除くことができるのです」 

マザー・テレサ 愛の花束―身近な小さなことに誠実に、親切に マザー・テレサ 愛の花束―身近な小さなことに誠実に、親切に
中井 俊已 (2003/09/18)
PHP研究所

この本の詳細を見る
EDIT  |  08:34  |  マザー・テレサ  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2007.01.19 (Fri)

大切な人なのですよ


マザー・テレサは、世間に見捨てられ、身も心もズタズタになって路上に倒れ伏し、死の寸前にある人を見捨ててはおけません。
 
ボロ切れのような体を丹念に洗い清め、髪を短く刈ってやり、粗末ながらも清潔な衣服に着替えさせて、ベッドにそっと横たえてあげます。
 
しっかりと手をにぎり、話すことができない瀕死の人には目で語りかけながら、ゆっくりと温かいスープを口に運んであげます。

「あなたも私たちと同じように、この世に望まれて生まれてきた大切な人なのですよ」
 
マザーは、そう話しながら、もう一度力をこめて手をにぎります。 
 
せめて、人間らしく死なせてあげたい……マザー・テレサの心はそのような思いでいっぱいだったのです。
 
彼女のこのような思いは特に、貧しく傷つき、誰からも顧みられることのない人々に向けられました。
 
しかし、本当は彼女の目の前にいる人すべての人に、そのまなざしは注がれていたのです。

「あなたも、この世に望まれて生まれてきた大切な人ですよ」
 
この世に生まれた人は、一人ひとりすべて、神さまから望まれて生まれてきた人だとマザー・テレサは確信していたのです。

EDIT  |  06:00  |  マザー・テレサ  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2007.01.18 (Thu)

何か美しいものを持っているものです


マザー・テレサがベネズエラに行ったときのことです。
  
ある家族が子どもたちのための家をつくるようにと土地を寄付してくれたので、彼女はその家族のところにお礼を言いに行きました。
 
すると、その家にとても重い障害を持った坊やがいたのです。
 
その坊やはとても美しい目をしていました。
 
瞳はいつもキラキラと輝いていて、口元にはほほえみをたたえていました。
 
マザー・テレサは、その子のお母さんに、
「この坊やの名前は?」と聞きました。
 
すると、お母さんは言いました。

「この子の名前は、愛の博士です。愛の博士と私たちは呼んでいるのですよ。

この子は私たちにどうやって生きていったらいいのか、
どうやって愛したらいいのか、どうやって幸せに暮らしていったらいいのかということを、このほほえみで教えてくれるんです」
 
その小さな子どもは、他の人の目からすれば何ももっていないように見えるかもしれません。
 
でも、どんなに体が不自由でも、この子は目にたたえた喜びで、親や兄弟、そして他の人にどのように愛するかを教えてくれていたのです。
 
マザー・テレサは、この世に不必要な人は一人もいないと信じていました。
 
だれもが神さまに愛されて生まれてきた存在なのだと疑いませんでした。
 
たとえ、どんな障害をもっている人でも、
ともすれば何もできないように見える人でも、何か美しいもの、
その人らしい素晴らしいものをもっていると思っていました。
 
マザー・テレサは、貧しい人、苦しんでいる人、病気の人、
障害をもった人、孤独な人をただあわれんでいたわけではありません。
 
美しく素晴らしい存在だと思っていました。

マザー・テレサ 愛の花束―身近な小さなことに誠実に、親切に マザー・テレサ 愛の花束―身近な小さなことに誠実に、親切に
中井 俊已 (2003/09/18)
PHP研究所

この本の詳細を見る

 
EDIT  |  17:41  |  マザー・テレサ  |  TB(0)  |  CM(1)  |  Top↑
 | BLOGTOP |  NEXT